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安積疏水事務所貴賓館

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 福島県郡山市は北に仙台・南に宇都宮、東にいわき・西に会津といった都市と結ばれた交通の要所であり県内一の商都として賑わいを見せています。 しかし近代以前の郡山は宿場町とはいえ一寒村に過ぎず、現在の発展を築いたのは明治初期以降に始められた安積疏水の開削事業による所が大きかったものといわれています。 安積疏水とは日本海へと流れていた猪苗代湖の水を荒涼としていた安積原野に引いて土地を開拓する為のもので、その疏水の管理を引き継いだのが現在の安積疏水土地改良区事務所にあたります。 この建物は事務所の新館(貴賓館)として昭和12(1937)年に建てられたもので木造2階建て、1階部分に茶色いスクラッチタイルを張り2階部分は白壁としながらも付け柱に合わせて縦方向にスクラッチタイルを張って垂直線を強調しています。  福島県郡山市開成2−22−2  07年11月上旬ほか

 ※参考 『ふくしまの西洋造』 1977
     『近代建築ガイドブック 北海道・東北編』 1985
     『光の街 影の街 モダン建築の旅』 1987
     『福島県の近代化遺産』 2010

 ※現存せず(東日本大震災による)。



 建物の設計者は渡辺恒雄。 勿論あのナベツネではなく、郡山の東南に位置する田村郡の出身で東京で建築家になった人物であるという。




 安積原野の開拓に尽力したのは旧米沢藩士で当時は福島県の典事(課長職)であった中條政恒。 前回の山形・吉池医院で紹介した中條精一郎の実父です。


 

 中條は当時の郡山の資産家ら25人から成る開成社を結成させ県と共同して安積開拓をスタート、これが後に国営の安積開拓と疏水開削へと繋がっていく事になりました。


 裏へ回ります。


 この貴賓館の隣りにあった旧の事務所は中條精一郎の設計で昭和6(1931)年に建ったものでした。 どうやら80年代初め頃に建て替えられたようです。
 

 中條精一郎の娘・百合子(後の宮本百合子 1899〜1951)は祖母の家のあったこの辺りで毎夏を過ごしており、17歳の時に『貧しき人々の群』で当時のこの開成の情景を描いている。 農村のあまりの貧しさを見、祖父の率いた疏水事業が本当にこの地の人々に幸せをもたらしたのかを疑問に感じていたようです。




 水平線よりは垂直線、『福島県の近代化遺産』では「ライト風ではない」とわざわざ書いてありました。。


 震災から3か月が過ぎた2011年6月18日に訪問した時の姿。


 無残にも壁の一部が崩れ落ち、人が近づかないように建物の周囲にはロープが張られていました。


 タイル張りで重量のある建物だったから揺れの被害が大きかったのでしょうか。 もうこの建物を見る事も出来なくなってしまいました。

旧金石警察署

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 金沢駅から県道17号(通称・金石街道)に沿って北西に進むと左手に見えてくるこの建物は昭和3(1928)年に金石警察署として建てられたもの。 警察署の後は「銭五遺品館」として江戸時代後期の加賀の豪商・銭屋五兵衛と家族の遺品を展示する施設として長く使われていました。 平成9(1997)年に遺品館が移転してしまった後は使われていなかったそうですが、近年になって地元青年団や有志らにより「かないわ銭五」と命名されてバーなどとして活用が始まっているみたいです。  石川県金沢市金石西1−6−18  10年07月中旬

 ※参考『石川県の近代化遺産』 2008



 玄関部。 両脇はガラスブロック。


 柱頭飾りが庇を突き破って上に出てしまっています。


 

 コーナーに丸みを持たせてまるで歌舞伎の隈取りのように不思議な形状の装飾を纏う。 アール・デコとか表現派風の建築意匠が混じっているような感じです。




 窓は小さめ。


 早朝の訪問でしたから営業はしていませんでしたが確かにバーという雰囲気です。




 RC造で予算2万円(当時)の建築。 平面はL字型をしています。 裏には平屋の留置場(こちらもRC造)があったようですが今は取り壊されて駐車場です。


 バスターミナルの前に建っています。

東玉大正館

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 かつての城下町であり現在は人形の町として知られる岩槻に残るこの建物は、大正時代に中井銀行岩槻支店として建てられたもの。 正確な建築時期については不明ですが、基礎部分が誤って隣家の敷地にはみ出し、それを了承した隣家に感謝する大正10(1921)年の書状が残されており、その中で既に竣工している事を示す一文がある事から遅くともその時までには完成していたようです。  埼玉県さいたま市岩槻区本町3−13−9  11年02月上旬他

 ※参考『続・首都圏 名建築に逢う』 2009
    『建築家 保岡勝也の軌跡と川越』 2012

  


 木造かと思いましたが実はレンガ造。


 中井銀行は東京にあった地方銀行で日本橋に建てられていた大正6(1917)年築の本店は保岡勝也の設計でした。 浦和支店(1914?)も保岡の作品でしたが、この岩槻支店の設計者は不明のようです。


 直線的な建物ですが入口上部のみ半円アーチ。


 岩槻は日光御成街道の宿場町でした。 日光東照宮の造営に関わった工匠達がここに留まり、周辺に数多く植えられていた桐を使って箪笥を作ったり、桐の粉を糊で練り固めて人形作りを始めたのが現在の「人形の町」へと続いているそう。




 赤茶色のタイルが良いアクセントです。


 ショーウインドウに飾られた古写真には昭和銀行の文字。 中井銀行は昭和3(1928)年に昭和銀行に買収され、度重なる銀行の合併の後にこの建物は昭和35(1960)年から人形店の東玉(とうぎょく)の所有となっています。


 腰部分は石貼。




 ちょうど今、岩槻では「まちかど雛めぐり」を開催中(3月17日まで)。 人形職人の多くの作品や各商店に伝わる古い人形等が街を飾って観光客の目を楽しませているようです。

旧精華小学校

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 大阪市立精華小学校は大阪2大繁華街のひとつ、ミナミの中心に位置し、平成7(1995)年に児童数の減少に伴い閉校となりました。 昭和4(1929)年に完成したモダンな校舎は残され閉校後は精華学習ルーム・精華小劇場として利用されていましたが、なんばエリア一帯の活性化へと向けた再開発により敷地は不動産会社に売却される事が決定、この校舎は解体撤去されその跡地には複合的商業施設が建設される予定のようです。  大阪府大阪市中央区難波3−2−4  08年01月上旬他

 ※参考『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996
    『ヒロシマの被爆建造物は語る 未来への記録』 1996
    『ヒロシマを探そう 原爆を見た建物』 2006
    『大大阪モダン建築』 2007



 戎橋筋に面した商店街のど真ん中に学校への入り口があります。


 遠近感・立体感を駆使して視覚的に奥へと誘(いざな)う。 訪問した時はこの扉の前にある鉄の門が閉まっていて中には入れませんでした。
 

 設計者の増田清(1888〜1977)は福島県桑折町の出身、耐震構造学の基礎を築いた佐野利器(1880〜1956)門下として東京帝国大学工学部建築学科を大正2(1913)年に卒業、安藤組大阪支店を経て同6年に大阪府土木課建築技師となり、さらに同13年には自らの事務所(増田建築事務所)を大阪に開設しています。 彼は鉄筋コンクリート造の普及に熱心で特にその構造設計に優れた手腕を発揮しました。 


 大阪を拠点に活動していた増田ですが本川小学校や広島市役所(共に昭和3年築・1928)の設計で広島市との関わりも深く、彼の地にも作品を残しています。


 増田の設計した建物は耐震強度に特に優れ、それは原子爆弾にも耐えるものでした。 彼が広島市内に設計した4つの建物は原爆の全壊全焼地域の中で大きな被害を受けながらも全て生き残り戦後の復興を支えました。 現在でもその内の2つ(平和記念公園レストハウスと本川小学校平和資料館)の姿を見る事が可能です。


 小学校に附属している幼稚園に残る装飾。


 ここは芝居街として栄えた道頓堀の近くという事もあり、出演中の子役が公演期間中だけ転校してくる事もあったそう。 地元有志の出資により設立されたという小学校が今、その役割を完全に終える時が来たようです。

旧三潴銀行本店

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 清力酒造社長・中村綱次ら大川の地元融資家が明治27(1894)年に設立した鐘ヶ江銀行を端緒とする三潴(みずま)銀行の本店として明治42(1909)年に建設。 表からは窺い知れませんがレンガ造の建物です。 18世紀半ばに開港した若津港と共に発展したこの一帯も、明治41(1908)年に開港した三池港の影響を受けて次第に衰退し、三潴銀行も大正14(1925)年に十七銀行(現在の福岡銀行)に合併され、この建物も海運会社やケーブルテレビ局等として使用されました。  福岡県大川市向島2367  13年01月上旬

 ※参考『筑後の近代化遺産』 2011



 正面玄関。 現在はこちらからの入場は出来ません。


 ペディメント付きの1階の窓。


 2階中央の窓はイオニア式の柱頭を持った付け柱で飾られています。


 2階の左右にある窓。 窓の装飾材には花崗岩を使っているそう。


 屋根窓の形をした換気口。


 隣接する新しい建物から中へ入ります。 現在は三潴銀行記念館(併設・九州貨幣博物館)となっていて国内外の貨幣等が展示されていました。


 この写真では良く分かりませんが階段手前の左側にあるドアが入場口です。


 中から見た正面玄関。


 装飾部を拡大。


 営業室だった吹き抜けの空間。 銀行時代のカウンターは取り外されています。


 ドイツ製の鋳型打ちブリキ天井が輝いていました。 平成21(2009)年に大改修が行われて往時の姿が甦っています。


 暖炉のデザインは様式的ながらも少し自由な感覚。 外観デザインとも共通する雰囲気です。


 イタリア製のタイル。


 金庫室です。


 劇場のボックス席のようにも見えますね。




 階段の脇を通って最初の部屋へ。 建物の北に位置する3部屋の一番西側の部屋です。


 隣りに新しい建物が出来たので、窓の外はニッチのような空間に改変されています。


 次の部屋へ。


 ここは部屋というより通路といった方が正しいのかも知れません。 3部屋の中央に位置し扉の向こうが先程の営業室にあたります。




 一番東側の部屋。


 裏手に附属屋があるのでここの窓の外もニッチ状になっています。






 戻る前に天井を見上げる。




 親柱のてっぺんにある円い部分は質感などから新しいもののようにも思えます。 この部分は復元なのかも。




 

 右のこの扉を開けると新館の2階に繋がっていました。 昔はどこに繋がっていたのでしょう? あるいは改修時に階段が設置され窓から出入りしてるのでしょうか。


 それにしても眺めの良い場所です。


 2階は会議室と重役室として使われていました。






 最初に広い方の部屋へ。


 天井の造作が素敵。






 右の扉から今度は小さい方の部屋へ入ります。


 こちらが重役室になるのかも。




 

 ディティールも逃したくない。






 天井の境目も気になる。




 内部を見終えて再び外に出てきました。




 避雷針。
 

 裏側です。


 正月早々という事で訪問時は閉まっていましたが、恨めしそうに中を覗いていたらおじさんが出て来てくれてワザワザ開けて下さいました(感謝)。。

旧前田利為侯爵邸洋館?

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 昭和4(1929)年に旧加賀藩主・前田家16代当主の利為(としなり)の本邸として建設された洋館。 裏手に和館を配した和洋並立型の住宅となっています。 洋館はイギリスの中世後期ゴシック様式を簡略化したチューダー様式といわれる建築スタイルで、建てられた当時は東洋一の大邸宅と謳われました。  東京都目黒区駒場4−3−55  06年09月上旬他

 ※参考『お屋敷拝見』 2003



 敷地は現在、目黒区立の駒場公園となっています。


 正門の脇には門衛所。


 門衛所の脇の非公開エリアの奥には、前田育徳会事務棟(図書閲覧所 昭和3年築・1928)など3棟の建物も残ります。


 前田利為(1885〜1942)は学習院から陸軍士官学校を経て昭和11(1936)年には陸軍中将、同17(1942)年にボルネオ守備軍司令官となるが搭乗機の墜落により帰らぬ人に。




 利為はイギリスでの生活を長く経験し、新邸の建設にあたっては外国人客をもてなすのにも相応しい建物を希望、洋館の設計を東京帝国大学教授の塚本靖(1869〜1937)に依頼しました。


 建物の実際の設計は塚本の愛弟子で大正5(1916)年に東京帝国大学の建築学科を首席で卒業した高橋貞太郎(1892〜1970)が担当しています。


 車寄せの天井照明。


 中へ入ってみます。


 主灯には唐草模様。


 右手の部屋は旧応接室。


 暖炉の上の大きな鏡が部屋を一層広く見せています。


 

 応接室の奥にはもう一つ小さな応接室がありました。


 

 この楕円の円柱状のものは暖房用のラジエーターカバー。


 女性的な繊細さ。






 

 柱頭はアカンサスをモチーフとしたコリント式。 イタリア産の大理石で出来てるそうです。


 旧応接室の隣りには小サロン。


 各部屋で意匠も全て異なります。






 大サロンが続いています。 境目の引き込み戸で客の数に合わせて部屋の広さを調節したようです。


 今度は大サロンから小サロンを見ています。




 

 グリルのデザインは唐草に梅? 和風チックですね。


 外はテラスになっています。


 葡萄と蔦の葉。


 

 どちらに行こうか。


 運命の分かれ道。
 

 右の扉から旧大食堂へ。


 鋳鉄製のフードが付いた白大理石の暖炉。




 ここだけ何故か近付けません。




 立入禁止の訳はこの暖炉の両脇のブラケットのある部分には金唐紙が貼られていたのでした。 金唐紙というと主に明治期の壁紙(技術)という認識でしたので、まさかここに貼ってあるとは思いもしませんでした。 ブログを書くのに調べていたら知った事なので肝心な部分の写真を撮っていません。。 


 暖炉の向かいの窓は緩くカーブしています。


 外から見るとこの部分。


 光のプリズム。




 この部屋は壁に木パネルを高い位置まで廻らせていて厳かな雰囲気です。




 大食堂の隣りは小食堂。 家族の日常的な食事はここで行われていました。






 造り付けの食器戸棚。 この戸棚の中には地下の厨房から料理を運ぶリフトが設けられています。


 ここにも葡萄の彫り物がありました。


 小食堂の外には裏の和館への渡り廊下があります。


 フェンスで遮られた空間なので外から見えるのはこれくらい(南面)。


 北側から見た渡り廊下。


 渡り廊下部分。 通常は非公開エリアで立入り出来ません。


 瓦屋根の和館が見えています。


 この階段を下りていけば和館。


 洋館の翌年に完成した和館。 こちらの設計は帝室技芸員であった佐々木岩次郎が担当しました。 和館は日常的な生活の場では無く、外国人の接待や雛祭り・端午の節句といった家族の伝統的行事を行う際に使われたそうです。 写真の量が多くなりすぎてしまうので今回は割愛。


 渡り廊下の途中にあった造り付けのベンチ。 夏場はヒンヤリして気持ち良さそうです。




 洋館の2階から見るとこんな感じ。 先程のベンチがあった所です。


 こちらも普段は非公開の壁泉。


 羊の口から水が出るのでしょうね。




 小食堂に戻ってきました。


 

 玄関ホールと一体となった階段広間。


 階段下はイングル・ヌックと呼ばれる暖炉とベンチのある小さな空間。


 淡い黄色のステンドグラス。








 



 次回は2階を紹介します。

旧前田利為侯爵邸洋館?

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 …前回からの続き
 

 階段途中にある装飾。


 2階ホールに上がってきました。 普通の邸宅では有り得ない広さです。


 赤紫色の絨毯が格調高い。


 まずは南東側の部屋から時計回りに見ていきます。


 庭園に面した南東の部屋は利為夫妻の寝室でした。


 前田家時代の家具や調度品は残っていなかったようなのでベッド等は全て再現品と思われます。




 絨毯が敷かれている部分は最初からその厚み分だけ低く作られていて床との段差を無くしています。


 暖炉は丸みを強調した柔らかなデザイン。


 

 西隣りは旧婦人室。


 

 葡萄唐草のレリーフだそうです。


 グリルのデザインは小菊。


 こちらも花柄に見えますね。


 

 緻密。


 窓の外はベランダになっていますが出る事は出来ません。


 隣りに移動して旧次女居室。


 前の2部屋に比べると随分狭く感じてしまいます。




 存在感タップリ。 ちなみにグリルに描かれた梅(梅鉢)は加賀前田家の家紋だそう。


 台座の天井レリーフは八芒星。


 一番南西の部屋は書斎でした。 ここはその前室にあたります。




 壁は床の間風。


 利為候の旧書斎。


 主の部屋に相応しい設えです。




 玉を抱いた龍の姿がありました。






 書斎の北側は旧長女居室。 ちょうど正面の車寄せの上の部屋にあたります。








 長女居室の隣りの部屋。 見るからに寒々しいこの部屋は物置か何かでしょうか。


 旧三男居室。




 廊下の窓から見ると建物の平面は中庭のあるロの字型をしているのが良く分かります。

 


 

 三男居室の北側は階段を挟んでフロアが半階低くなっています。 床の高い南側が家族の個室で、低い方の北側が主に使用人の部屋になっているようです。




 階段下の1階部分は非公開エリア。


 主階段よりは遥かに質素です。 


 一番北西にあたる部屋は旧会議室。


 お隣りのこの和室は旧女中部屋でした。


 中庭を通して向こうに見える縦長窓は主階段室の窓。


 この部分です。


 北東にもう一つ女中用の和室がありました。 この邸宅で暮らした前田家の家族は6人でしたが、使用人は住込みと通いを合わせて140人いたそうです。 想像していたのとは桁が一つ違いました。


 3階へ上がれる階段も通行禁止。


 この下も非公開エリア。


 イガイガしてる。


 旧三女居室。


 大食堂の上の部屋なのでラウンディッシュ。


 最後の部屋は旧浴室。 2階で一番最初に見た夫妻寝室と三女居室の間です。




 バスタブも何も無い部屋でした。


 左に見える階段上の透かし窓は仏教的なモチーフである宝相華唐草。




 階段を下ります。


 

 室内用のスリッパから靴に履き替える時に見つけた天井装飾。
 

 ノッカーです。


 外に出て北面を見てみます。


 使用人用の裏玄関が二つ。
 

 

 厨房などのある地下部分。


 見上げた図。




 今度は南に回ってきました。


 当初は本郷に構えていた加賀藩前田家の上屋敷(大名屋敷)ですが、明治4(1871)年の廃藩置県により敷地の大半が収公(没収)されて文部省用地となり、そこに東京大学のキャンパスが整備されました。 それでもなお前田家は敷地の一角に屋敷を構えていましたが、関東大震災(大正12年・1923)の発生により東大本郷キャンパスの建物が壊滅的な打撃を受け、その復興計画の為に更なる敷地の必要性があった事から大正15(1926)年に敷地交換が行われこの駒場に移ってきたのでした。






 

 素朴な風合い。
 

 翼のあるライオンが上から睨みを利かしていました。


 利為の戦死後は土地・建物は人手に渡り、敗戦後は連合軍に接収され司令官官邸として使われました。 利為がこの立派な邸宅で家族と暮らしたのは十数年に過ぎなかった計算になります。

新日本製鐵室蘭製鉄所 知利別会館

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 新日本製鐵(新日鉄)の前身会社である日本製鐵の幹部クラス向け職員倶楽部として昭和15(1940)年に建設。 工事の発注額は当時の金額で100万円以上だったといわれます。 終戦直後の約1年半は進駐軍に接収され宿泊所にあてられ、その後は社内外の来賓の接待や従業員の婚礼の場として用いられているようです。  北海道室蘭市知利別町4−27−1  11年04月下旬


 ※参考『道南・道央の建築探訪』 2004



 道路からは少し高台になった丘陵地の途中に門を構える。


 新日鉄の他に日本製鋼所も抱える室蘭は「鉄の街」と称され発展してきた歴史があります。


 白壁が清楚な雰囲気。


 鉄鋼会社の建物でもこの建物は木造建築。 昭和15年という当時の社会情勢も関係しているのでしょうか。


 企業施設という事もあり勝手に敷地内に入る事も憚られたので少し高台から眺めてみました。


 時計塔とか教会建築の塔のようにも見えます。




 庭木の間から微かに見えた南面。 1階部分には応接室や談話室、撞球場など主に洋室があり、2階には大広間や和室があって内部は和洋折衷になっているみたいです。

横浜の洋館

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 元町公園から少しばかり西へといった山手の尾根の支脈沿いに建っている木造洋館。 正確な建築年は文献にも書いてありませんでしたが、恐らく関東大震災後の大正末期から昭和初期頃に建てられたものと思います(個人的推察)。 以前紹介した同じ横浜にある小さな西洋館とは少しタイプの異なる建物ですが、玄関脇に半六角形の出窓を設置する構成は良く似ています。 表札には日本語の個人名(苗字)と横文字の企業名らしきが掲げてありました。   神奈川県横浜市南区  13年03月中旬

 ※個人邸と思われますので見学の際はご配慮願います。

 



群馬県庁昭和庁舎

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 昭和3(1928)年完成の旧群馬県本庁舎。 庁舎建築を得意とした佐藤功一による設計です。 昭和3年4月9日の県庁舎落成式後に3日間(4日間とも)に渡って行われた一般開放には約30万人もの見学者が訪れ、当時の群馬県民の4人に1人はこの県庁舎を見に来た計算になるのだそうです。  群馬県前橋市大手町1−1−1  13年03月上旬



 鉄筋コンクリート造3階建て・地下1階、横に長くて安定感のあるプロポーション。


 敷地はかつての前橋城の跡地です。


 3階中央部分にはバルコニー。 平面図を見るとこの部屋は正庁の間となっています。


 2階と3階の窓の間の装飾。


 

 建設費は当時の金額で79万円余り。


 

 屋上庭園・スチーム暖房・水洗式トイレ・押しボタン式自動消火器など当時の新鋭設備を誇る先進的な建物でありました。


 

 扉の上の植物模様のレリーフ。


 梁にも同じような装飾が用いられています。


 玄関ホールと中央階段。




 連なる曲線が美しい。




 平成11(1999)年の新庁舎建設に際してもこの建物は活用を前提に残されました。


 昭和61(1986)年の耐力診断では構造的に堅牢である事も判明しているそう。


 1階ロビーは休憩・談話室のようになっています。


 奥には昭和34(1959)年に購入したと説明書きのある金庫が置いてありました。


 当時の公金支払は現在のような口座振替ではなく現金を直接支払っていおり、支払いに必要な現金を毎日銀行から下ろしてこの金庫に保管していたそうです。




 

 建物の背面にあったこの区画は増築でしょうか。


 表とは打って変わって裏面は真っ白な姿でした。


 まるで水着の日焼け跡。


 玄関ホールに戻って外に出ようとしたらこんなプレートが目に付きました。


 「築廰紀功」? 漢文に見えてしまい読むのが億劫になりました。 「築庁起工」かも知れませんね…。


 背にした側にもプレートが。


 設計者名として佐藤功一、さらに建築顧問として徳永庸(佐藤功一の建築事務所の所員)の名前もありました。 木村武一については不明です。




 群馬県庁が初めて設置されたのは高崎でしたが明治14(1881)年に前橋に移転する事が正式に決定し、以来今日までその状況が続いています。


 後ろには33階建てと高層になった現・県庁舎が控える。

てんてこまい。

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 ご無沙汰しております。 年度末から仕事が忙しくて残業続きなのと、親類の結婚式や法事などが重なってブログを更新している余裕が無くなっております(汗)。 この間にも大勢の方のご訪問及びコメントを頂いており感謝の気持ちで一杯です。 日曜日頃にはコメントに対する返信も順次出来ると思いますので復活までもう暫らくお待ちくださいませ。

 作りかけだった記事を急きょ完成させました。 再開までは以下をどうぞ。
 


 旧坂出商業学校 T8 香川県坂出市  成人の日の3連休は香川〜徳島を訪問してました。


 坂出の猫さん  そこが好きなんだね。


 旧高畠医院 T10 香川県多度津町  あめりか屋の設計/施工になるT邸とは何処にあるのでしょう。


 JR琴平駅 T11 香川県琴平町  正月はさすがに人少なし。


 興泉寺本堂 T10 同上


 A家旧郵便局 S16改修 香川県高松市  旧由佐街道沿い。


 旧御所郵便局(S9)? 徳島県阿波市  正確な住所も写真も載っていない近代建築調査の巻末リスト物件を探し出すのは大変です。。


 旧羅漢郵便局 S30以前 徳島県板野町  現在は個人邸として使われています。


 藤田医院 詳細不明 徳島市  徳島には未訪物件がまだ7〜80件。 先は長い。  


 南天苑 S10頃移築? 大阪府河内長野市  辰野金吾設計の可能性が高いという。


 旧加賀田村役場 T11 同上


 旧川西尋常小学校 S10 大阪府富田林市  やっぱりPLタワーが気になるさ。


 葛原家住宅 T13 同上  薔薇模様のステンドグラスあり。


 旧国分銀行 T13 同上  意外に交通量が多いところ。


 旧和歌山無尽本店 T14 和歌山市  活用されそうな気配はありません。


 和歌山県庁舎 S13 同上  確かに富山県庁舎に似ている。


 和歌山の建物 詳細不明 同上


 有本水源地 T14 同上  こっちは真砂浄水場のやつと似ている。


 T邸 T14 同上


 旧中原邸 S3(T末?) 同上  装飾好き。


 旧土橋氏別荘 T3? 同上  かろうじて確認出来ました。 だいぶ傷んでいる様子です。


 S家住宅 詳細不明 同上


 旧楽長ホテル S26 同上  戦後物件ですが手が込んでる。


 和歌山のビル 詳細不明 同上  レンタサイクルで適当に走っている時に発見。 JRの駅のほう?


 和歌山のお屋敷 詳細不明 同上  敷地内にはレンガの建物もありました。  
 

 杉原歯科 詳細不明 同上


 南海・高野下駅 T14 和歌山県九度山町  時間も無いのでここまで行くのが精一杯。


 パイル織物資料館 詳細不明 和歌山県橋本市


 南都銀行下市支店 S14 奈良県下市町  赤い看板から右側は増築でしょう。


 下市の建物  お洒落は足元から。


 旧名柄郵便局 М後? 奈良県御所市  昔は電話するのも大変だったんだね。


 N林業事務所 T15 同上  私も伏字にしときます。


 旧吉野銀行田原本支店 S8 奈良県田原本町  五條や大和高田の支店と共通する意匠。


 奈良の某マスコットキャラクター。 射的だったら真っ先に撃ち落としにいきたくなるタイプ。


 K家住宅 T14頃 奈良市  前回来た時は大雨でした。


 旧奈良県物産陳列所 М35 同上  これは何様式?


 JR京終駅 М31 同上  奈良から一駅でも止まる電車は1時間に1本ぐらい。 歩いたほうが早かった。


 旧伊那佐郵便局 S9 奈良県宇陀市  遠くまで見に行ったのにまさかの改修工事中。 こういう空振りも少なくはありません…。


 K家住宅 S2 兵庫県宝塚市  あめりか屋の建築。


 旧徳田家住宅 T8 同上


 旧安田家住宅 T10 同上  老朽化して傾いています。


 T村家住宅 T11 同上  これも「あめりか屋」の建築と思う。


 T添家住宅 T初 同上


 旧日高胖邸 T11 同上  玄関扉は洋風意匠でした。


 東京大学・第2食堂 S9 東京都文京区  この階段室の空間が好き。 上まで登りましょう。


 同・御殿下記念館のエントランス S8 同上  М21の工科大学本館の部材を使用して建築。


 同・旧夜間診療所 T15 同上  岸田日出刀の設計。
 

 東大の建物? 同上  本郷キャンパスには半年で3回くらい訪問しているのに、どれがどの建物なのか写真の区別がつかない。。


 東大の建物? 同上  同じく。


 同・工学部陳列館 T14 同上


 同・安田講堂 T14 同上  最近気になる建物。


 同・工学部2号館旧館 T13 同上  建物の上に重そうなのが、のしかかっている。


 同・医学部附属病院管理・研究棟 S9? 同上 


 旧加藤薬局 S3 同上  住宅化されました。


 旧辻新次男爵邸 М5 同上  洋館はM41。


 湯島聖堂 S10 同上  乱れとる。


 ニコライ堂 M24 東京都千代田区


 神田猿楽町々會詰所 S10 同上  築年は『東京建築 みる・あるく・かたる』(立ち読み)から。


 杉村楚人冠記念館 T13 千葉県我孫子市  建築界の黒羊(自称)の作品。 国内に現存するのは旧香港上海銀行(長崎)だけだと思っていた。


 千葉市ゆかりの家・いなげ S初 千葉市


 旧神谷伝兵衛稲毛別荘 T7 同上


 浅草文化観光センター H24 東京都台東区  てっぺんからの眺めは格別です。


 浅草寺子院 S7 同上  岡田兄弟(信一郎・捷五郎)の共同作品という。


 旧待乳山小学校 S3 同上


 エスペランサ靴学院 詳細不明 同上  東京にも正体の分からない建物が結構ある。


 東武浅草駅(松屋浅草店) S6 同上  みんな見に行くのが素早いよ。  


 旧岡三証券ビル(S10)? 同上  『台東区近代建築調査報告書』には載っていない建物。 違う資料の巻末リストから推測。


 タイガービル T15 同上  築年は台東区の観光情報誌『台東瓦版』の建物探訪号による。


 岡田商事 詳細不明 東京都墨田区  これも確か古いんだよね。


 浅草橋ビル S3〜4 東京都台東区


 旧日光商事 S初? 同上


 国立西洋美術館 S34 同上  「コルビュジェ」って上手く言えない。


 上野松坂屋 S4 同上  ここも外観を復元してくれないか。


 玉川学園礼拝堂 S5 東京都町田市  高台にあります。


 旧赤星邸 S9 東京都武蔵野市  レーモンドの作品。


 旧成蹊高等学校本館 T13 同上  冬の建築散歩。


 池田石材店 T13 同上  今まで気付かなかった。


 日本無線三鷹製作所事務所 S14〜16? 東京都三鷹市  製作所の廃止及び敷地の売却は既定路線? 解体される可能性が高そうです。 


 石勝(?) 詳細不明 東京都府中市  免許の更新に行った時に多磨霊園の近くで発見。


 旧制第一高等学校本館 S8 東京都目黒区


 同・同窓会館 S12 同上  現在はレストラン。


 東京大学駒場?キャンパス・先端科学技術研究センター1号館 S3 同上


 日本民藝館本館 S11 同上 入館料は高いけれど建物も展示も良かった。


 東京工業大学附属図書館 H? 同上  このバランスの悪さがなんか好き。  


 旧清明文庫 S8 東京都大田区  周りがスッキリしてた。


 旧高橋診療所 S6 同上  この辺は裏道に入れば古い個人邸が残っていそう。


 旧司法書士事務所 S初? 同上  蕎麦屋さんに転身。


 法政二中・高時計塔校舎 S14 神奈川県川崎市  分かってはいたけど遅かった。 


 青山学院大学・法人本部 S6 東京都渋谷区  ここに来るのも7〜8年振り。


 同・間島記念館 S4 同上  良く見ればヘンテコな建物。


 永壽堂医院 T13 群馬県館林市  行く末が案じられる。


 旧塩澤医院 S10 同上  駅前にこんなのあったのね。


 群馬会館 S5 群馬県前橋市  グンマーって知らなかった。


 前橋カトリック教会 S7 同上


 高柳内科医院 T12 同上


 旧芦ヶ久保小学校 S10 埼玉県横瀬町  秩父の山々が花粉で黄色くボヤけていた(恐怖)。


 旧南川小学校 S13(12?) 埼玉県飯能市  コイツに釘付け。


 旧岐阜県庁 T13 岐阜市  ちょっとした地震が来ても倒壊するからその時は建物の外に避難してくれって…。


 旧各務原駅前郵便局 S14? 岐阜県各務原市


 高田の建物 詳細不明 岐阜県多治見市  何となく旧郵便局風。 表通りに郵便局あるし。  


 旧加茂郡銀行羽黒支店 М40頃 愛知県犬山市


 旧柳湯 詳細不明 東京都荒川区  数年前に見当違いの場所を探していた。 


 旧王子電気軌道本社ビル 詳細不明 同上


 矢島写真館 詳細不明 東京都台東区


 鈴木食品工業 詳細不明 同上  こんな看板建築が残っているなんて。


 旧坂本小学校 T15 同上  手前は入谷鬼子母神。


 旧陸奥宗光別邸 М24 同上  久しぶりに見たら綺麗にペイントされていた。


 S邸 T10 同上


 横浜市開港記念会館 T6 横浜市  横浜市歴史的建造物に認定されたばかりの旧神奈川県産業組合館(S13)が絶賛破壊中でした。 なんだそれ。

 
 旧バターフィールド&スワイヤ商会 T11 同上
 

 ホテルニューグランド S2 同上  一度くらいは宿泊してみたいけど。


 エキゾチック・ヨコハマ。


 日本基督教団 横浜海岸教会 S8 同上  いつも外観だけ。


 旧ラフィン邸 T15 同上  火曜日だと2階の回廊が見学出来るようです。


 司命堂医院 詳細不明 同上  初めて降りた戸塚でいきなりの発見に歓喜。


 旧ウィトリッヒ邸 S8 同上  坂道登るのも疲れるね。


 伊東医院医院棟 T14 同上  住宅棟はS5(棟札発見)。


 旧日野銀行 T末〜S初頃改修 東京都日野市


 旧蚕糸試験場日野桑園第1蚕室 S3頃 同上  近くの建設工事も終わってようやくゆっくり見られるようになりました。  


 旧武蔵高等学校 T12 東京都練馬区  練馬区の建築探訪は初めて。


 同・講堂 S3 同上


 旧安田貯蓄 T元以前? 東京都板橋区  詳細は『板橋区の近代建築 近代建築調査報告書 住宅編』に載っています。


 G・Wは10連休になったので九州へ旅立つ予定。 忙しさに付きあわせてしまい毎度申し訳ありません…。 

佐保会館

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 大正13(1924)年に皇太子殿下(後の昭和天皇)の御成婚記念事業として立案され、奈良女子高等師範学校(奈良女子大学の前身)の同窓会(佐保会)により建てられた同窓会館(昭和3年築・1928)。 建物の設計は奈良県下市町出身の岩?平太郎(1893〜1984)によるもので工事費は26、683円(当時)、同窓生や教職員からなる建設係が組織されてその責務を担ったそうです。  奈良県奈良市北魚屋西町(奈良女子大学内)  13年02月中旬

 ※参考『近代奈良の建築家 岩?平太郎の仕事 武田五一・亀岡末吉とともに』 2011
    『近代和風建築 伝統を超えた世界 上/下巻』 1998  



 正門から入って北西方面、グラウンド脇に姿を見せる。


 同じ古都でも京都とは異なり、奈良の近代建築は伝統に対する意識の高まりにより和風意匠を外観に用いたものが多くなっています。




 

 1階には洋風の応接室などもありますが床の間のある和室などが中心になっているそう。


 2階は洋風の大ホールと控室があるそうです。


 設計者の岩?平太郎は大正7(1918)年に京都に建築事務所を開設、しかしこれは師匠の武田五一が設計を依頼された建物の実地設計及び現場管理を行う為の組織でした。 プロフェッサーアーキテクトとして忙しく飛び回る師匠を下支えし、その繋がりによって設計活動を行っていましたが大正10(1921)年の暮れに郷里の吉野に戻り、そこで地縁を得て奈良ではこの佐保会館や公共建築などを依頼される自立した建築家に育っていたようです。

近況?

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 簡易掲載版。 6月と9月も忙しくなりそう。


 辰野葛西の日銀大阪支店旧館


 岡田信一郎〜辰野片岡の大阪市中央公会堂  大阪の宝やね


 野村一郎建築事務所の日本電気計器検定所  


 旧陸軍第四師団司令部庁舎


 これが大正13年築の旧大阪府知事官舎?


 旧天満屋回漕店  初めての内部見学


 昭和前期築という大阪・川口の三榮工業


 川口連棟式事務所ビル


 京都・六条院小学校の附属施設(講堂?)  校舎(T14)は既に解体済み


 吉田鉄郎の旧京都中央電話局上分局


 先斗町歌舞練場


 手越医院  京都には色んな種類の個人医院が残っている


 旧新道小学校


 喫茶ソワレ


 昭和4年築の新洞小学校


 河原町通のアールデコな照明  建物の設計顧問には武田五一の名前


 京都市庁舎にお花を添えて


 また京都大学へやってきた


 こんな建物で勉学したいね


 木子七郎の名前見つけた


 ここの窓でしたか。


 旧立誠小学校  イベントで時々公開されています


 社会保険京都病院近くのS邸


 帝冠様式な京都教育大学附属京都小学校


 本野精吾の旧京都高等工芸学校本館


 ヴォーリズさんの旧舟岡邸離れ


 小山○○町には興味深い個人邸がたくさん


 レンガ造りの大谷大学旧本館


 夏場は生い茂った樹木で殆んど見えなかった紫明会館  今はデイサービスセンターらしい


 同志社大学へ


 アーモスト館  深窓の令嬢を見る気分


 同志社大学からも近いA邸は武田五一の作品


 京都の建築家といえば松室重光


 旧成徳中学校も活用されてるみたい


 旧柳原銀行本店


 昭和6年築の鳥羽高校


 京都着の夜行バスはここの前辺りで降ろされる


 龍谷大学


 加藤ビルのステンドグラス


 関根要太郎のお仕事


 旧東山区役所


 明治建築のT邸


 石田愛商店


 梅鉢医院


 旧京都堀川仏光寺郵便局  いつの時代の建物でしょう


 旧富長商店(S10)  元は呉服商


 蒼い月が浮かんでいた


 京都あめりか屋の革島医院


 デスマスク


 今度は彦根へ


 大正建築の旧歯科医院


 正体不明の個人邸


 この日のメインは近江八幡


 特別公開されていたアンドリュース記念館


 内部撮影は禁止でした


 旧八幡郵便局


 中村医院(S13頃) 詳細は『近江愛知川町の歴史 第4巻 分冊2』で


 手おりの里・金剛苑にある旧尋常高等小学校(S2)  他に戦前築の旧村役場が2つ移築されている


 同じ通りにある旧近江麻布同業組合商品陳列館も現存確認


 一気に飛んで福岡・苅田町の個人医院(詳細不明)


 北九州の八幡東


 そんな表情せんでも…。


 見たかった斜向かいの某記念館(旧医院)は予約制開館に変わっていました(無念)


 旧奥野医院のステンドグラス  建物は撮影OK


 移築再建が終わったばかりの鹿児島カトリック・ザビエル教会の旧聖堂(福岡・宗像市)


 辰野片岡の旧日本生命九州支社


 佐賀の旧池田医院  空家かも


 徳永庸の徴古館


 N邸  すわ新発見かと色めき立ちましたが他サイトで既に紹介されていました(流石。)


 佐賀大学学長宿舎(T12)


 旧三省銀行


 旧古賀邸  説明を熱心に聞いていたら非公開エリアも見せてくれました♪


 旧古賀銀行


 今井兼次の大隈記念館  赤いステンドグラスからの光が2階を強烈な色に染め上げる


 昭和9年築の旧銀行


 三日月町の旧医院


 8年振りの唐津訪問


 旧三菱合資会社唐津支店本館


 旧高取邸  十数人の見学グループの最後尾に途中参加させられても見えないし解説も全く聞こえないよ…


 綿屋さんの応接間


 唐津の旧医院?


 西唐津駅近くのレンガ


 呼子に来ました


 旧銀行?


 呼子カトリック教会


 平戸の教会も8年振り


 モルタルが剥がされてレンガも見える


 宝亀教会  教会のほとんどが明確に内部撮影禁止となっていました


 紐差教会


 平戸の白い家


 田平教会


 大正2年築の旧平戸商業銀行江迎支店  旧江迎郵便局らしきも確認


 シルエットがペンギンに見えてしまう


 木造駅舎で一休み


 内装はマリンブルー  2年間に及ぶ耐震・復元工事が今年度にも始まるそうです


 佐世保の新開荘


 かつての炭鉱事務所


 出津の教会


 まだ「現存唯一」と紹介されていた


 伊王島の教会


 伊王島の灯台


 江崎べっ甲店


 T15の附属屋?


 東山手十二番館


 ちょっと前を通りますよ。


 東山手甲十三番館


 7分の1


 旧清水邸


 旧杠葉病院本館


 長崎の個人邸  もちろん明治の建物


 旧中村邸  


 復活は無いのでしょうか


 旧雨森邸  移築復元されているので何所までがオリジナルだか


 国宝・大浦天主堂  重文の国宝への格上げにより価値が半減するのは避けてもらいたい


 本当に平和祈念  右傾化するのは良くないよ  


 長崎教会


 天気に恵まれすぎている


 ギョッとするね


 移転により空家になりました


 しまばら水屋敷  フェリー時間に間に合わないので今回も見学おあずけ  もうチャンス無いかも


 島原から熊本へ


 阿蘇攻略への第一歩


 北里柴三郎の記念館


 図書室に変わっていました


 旧女学院?


 coffin〜弧風院


 くまモ……通潤橋


 柵は無いので悪ふざけはやめましょう


 ……。


 旧出水村役場(??)  附属施設かも知れません


 夏目さん家


 熊本の武田五一


 大牟田市役所


 旧清力酒造事務所  色々と親切にして頂きありがとうございました

告知 映画館・旭館、一日だけの復活(愛媛県内子町)

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 愛媛県内子町でコマの曲芸師として活動されている三増巳也(みます みや)さんから同町にある旭館(大正14年築・活動写真館)の一日限りの映画上映会のお話を頂きました。 日時は6月2日(次の日曜日)の13時と17時の2回で『赤穂浪士』(昭和36年東映作品 主演・片岡千恵蔵)の上映を行います。 入場料は建物の修理費用に充て、合わせて旭館の再生復活に向けて資金と賛同者を募ります。 興味のある方、または今回の趣旨に賛同される方がいらっしゃれば宜しくお願い致します。 なお建物は現在、文化庁に登録有形文化財への申請中です。


 現在この旭館を所有されている森文醸造様のサイト

 内子町観光協会のサイト

 復活上映会の記事

 三増巳也さんのサイト



 昭和43(1968)年に閉館。 約半世紀ぶりの映画上映となります。 興味のある方は是非、足をお運び下さい。
 

旧雨森邸

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 明治中期頃に英国人のウィルソン・ウォーカーにより現在の南山手町2−11番地(旧南山手町12番地)に建設された住宅で、初期には外国人用のホテルとして使用されていたともいわれます。 建物の設計・施工は分かっていませんが日本人大工の手に成るものと思われ、長崎居留地における同時期の洋風住宅が小型・簡素化していく中では珍しい非常に質の高い住宅だそうです。 大正11(1922)年頃からは医院や住宅として使用されていましたが昭和63(1988)年に解体される事になり、長崎市が寄贈を受けて現在地に移築復元して現在は町並み保存センターとして活用されています。  長崎県長崎市南山手町4−33  09年12月下旬他


 ※参考 『総覧 日本の建築9 九州・沖縄』 1988
     『南山手の洋館』 1977



 当初は大浦天主堂へと向かう坂道の途中に建っていました。




 吹き放ちの玄関ポーチ。


 

 中央部が突出したこのベランダ面が当初は海側を向いていました。 三角のペディメントが立体感を訴えかけてきます。 


 掃き出し窓。






 玄関から入ります。




 先程見たベランダに面した側の部屋。 間仕切りは引き込み戸になっていました。


 暖炉にはマントルピース。




 扇形の装飾があります。


 照明の台座にも漆喰による植物模様の装飾。


 ベランダの無い壁面にはベイウインドウが設けられています。


 中廊下を通って階段へ。


 親柱は随分と大振りなデザイン。




 2階は研修室や会議室・ギャラリーとして使用されています。


 2階にも暖炉+マントルピースがありました。








 1階とは異なる細かいデザインです。






 移築される遥か昔、ホテルとして使われていた頃は海を望める抜群の眺望だったでしょう。


 畳敷きの部屋もありました。


 和とも洋ともいえない部屋です。




 無料公開なのでお勧めの場所。




 横浜、そして神戸に主役を奪われる前の最も輝いていた時代の長崎居留地の栄華を今に伝えています。

鹿児島カトリック・ザビエル教会旧聖堂

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 宣教師フランシスコ・ザビエルが日本へ渡来してから400年にあたる昭和24(1949)年に鹿児島市内に建てられた木造の聖堂。 建物の老朽化、及びザビエル渡来450年祭の折にコンクリートの聖堂に建て替えられるべく平成10(1998)年に解体されましたが、部材は福岡県宗像市の「福岡黙想の家」の敷地に運搬されて保存、平成19(2007)年に着工した復元工事が苦難の末に今年完成して聖堂は現代に甦りました。  福岡県宗像市名残1056−1  13年04月下旬

 ※参考『聖堂再生』 2007



 木造の聖堂は塔までの高さが21メートル。


 「聖フランシスコ・ザビエル カトリック教会」。


 この聖堂は2代目の建物にあたり、初代の石造の建物(明治41年築・1908)は昭和20(1945)年4月の鹿児島空襲で外壁だけを残して全焼したという。


 鹿児島市はザビエルが初めて日本に上陸した歴史的な場所でキリスト教信者にとっては聖地とも呼べる場所。 ザビエル渡来四百年を記念して海外巡礼団が訪れる予定を控えていた為、戦後すぐに労力と知恵を結集して聖堂は再建されました。


 オレンジがかった赤屋根が飛び切り目映い。


 アーチ型の高い天井。




 終戦直後で物資も不足する中、信徒や信徒以外の若者も再建に加わり、一面焼け野原の中で明日への希望を夢見ていたと伝わります。






 この聖堂の設計者は当時の神父の七田和三郎と衛藤右三郎という建築家。 衛藤は大連市・南満州工業専門学校建築学科を卒業し中村宗像建築事務所(中村與資平・宗像主一)に入所、終戦後は鹿児島で最初の設計事務所を開設した人物という。




 2階へと上がってみます。






 火の点いたロウソクを模したようなガラス窓です。


 賛美歌も響きそう。






 すりガラスの模様が四葉のクローバーのようにも見えますね。






 耐震の為の鉄骨がサイドに張り出す。




 モルタルによる側面窓の装飾。


 側面出入り口。


 今度は山間の町から平和を見守ります。

京都大学 文学部陳列館

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 京都帝国大学の拡張期(大正3〜11年頃)を代表するネオバロック風の建物で、国史・考古・地理・美学等に関する分野で収集した資料を収蔵・管理する為の建物(大正3年築・1914)。 当初はL字型の平面プランを持つ建物でしたが大正12(1923)、同14(1925)年及び昭和4(1929)年と3度の増築を重ねて全館完成し、ロの字型の平面プランへと変わりました。 しかし建物の狭隘化や老朽化により資料の活用に次第に困難をきたすようになり、昭和61(1986)年に新たな博物館が完成すると資料はそちらへと移転され、その際にこの建物も背面側が半分ほど撤去され再びL字型の平面プラン(但し当初とは逆向き)へと変わりました。  京都府京都市左京区吉田本町(京都大学吉田キャンパス内)  12年12月上旬他

 ※参考『京都大学建築八十年のあゆみ』  1977
    『近代名建築 京都写真館』 1996



 レンガ造ですが外壁にモルタルを塗り、目地を切って石造風の仕上げとしています。


 鍵がかかっていて中には入れず。


 軽やかで華麗な装飾です。




 玄関頂部のキーストーン(要石)風装飾。


 玄関ポーチの照明台座を真下から見上げる。






 建物の両端には三角形のブロークンペディメント。


 ぺディメントの中央には楕円窓。


 植物の緑と上手く調和していてお洒落上手です。




 正面の櫛形のペディメントでは丸窓になっていて変化を加えています。


 建物の設計は京都大学建築部創設(明治39年・1906)と同時に初代建築部長に任命された山本治兵衛と、山本没後に建築部長を引き継ぐ事になる永瀬狂三の手によるものです。

旧八幡郵便局

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 明治42(1909)年に当地の素封家・小西家によって建設され、大正10(1921)年に既存の町屋の前面を増改築する形で完成した郵便局舎。 設計は近江八幡を拠点に活躍した米国人建築家(後に帰化)W・M・ヴォーリズによるもので、昭和36(1961)年に郵便局が移転した後は一時的に別の用途に使用され、その後は長い間放置され玄関部分が取り壊されるなど建物は荒れていました。 しかしその状況を危惧する有志達6名によって始められた保存運動によって少しづつ整備・再生工事が行われ、現在は広く一般に開放されるまでの状態に戻っています。  滋賀県近江八幡市仲屋町中8  07年11月下旬他

 ※参考『ヴォーリズ建築の100年』 2008
    『湖国のモダン建築』 2009



 正面外観。 スパニッシュに和風を加味した折衷様式になるそう。


 平成16(2004)年に復元された玄関(庇)部分。 他の部分と見比べるとまだ少し新しい感じが残っていました。


 ここにも円弧状の庇。


 軒の一部が途切れ、その部分を破風状に立ち上げる。 中央の装飾は…


 関西学院の本部棟(昭和4年・1929)などに似たものでした。


 こちらは経済学部。


 旧八幡郵便局に戻って室内の木製カウンター。


 内部も自由に見学出来ます。


 天窓があって奥の方も明るい。






 この部屋は無料の休憩所になっていました。




 郵便局時代の窓口。


 

 ドアノブは紫色のクリスタル。




 室内にはアンティークショップがあって絵葉書なども売られています。


 室内を通り抜けて建物裏手へ。


 2階への階段。




 上っていく。


 クランクを抜けて。




 天窓部分。


 2階は主に電話の交換室で、現役当時は10人余りの若い女性がここで働いていたそうです。


 今は各種資料展示室。




 

 活気に満ちた華やかな仕事場だったんでしょうね。
 

 ヴォーリズの結婚式の写真が飾られていました。 大正8(1919)年、夫・メレル38歳、妻・満喜子35歳。 東京の明治学院チャペルでの幸せの一コマ。




 局長の小西氏は、建築家になる前の英語教師時代のヴォーリズの教え子でした。
 

 ヴォーリズ建築を愛する人たちの手により、これからも守られていきます。

革島医院

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 蔦の絡まるトンガリ屋根のこの建物は昭和11(1936)年に建てられた個人医院。 建築が趣味であった施主(初代院長)が留学先で見たドイツの城郭をモデルとして半年間をかけて自ら図面を引き、引き直す事30回の後に「京都あめりか屋」に発注し、その案を元に図面の修正が行われ完成したのだそうです。 平面は中庭のあるロの字型で円筒のある北側(写真向かって左側)は住居で南が病院部分、その病院部分の2階は入院患者用の病室になっているようです。  京都府京都市中京区麩屋町通六角下る坂井町470  13年05月中旬

 ※参考 『京都の洋館』 2004
     『京都の近代化遺産』 2007



 北西から見た外観。 木造2階建て(一部3階)で円筒部分の1階は応接室に充てられています。 右隣に新しい建物があるのでここはもう住居だけの使用かも。


 

 玄関扉は新しそうですが菱形デザインのステンドグラスは建築当初の物でしょうね。


 ブラケットも古そう。


 診察室には初代院長がドイツから取り寄せた医療器具もあったという。 今もあるのでしょうか。
 

 避雷針はアールデコ風。


 三角の切妻を見せるこの部分は階段室になっています。


 京都あめりか屋の設計担当は首藤重吉という人物。


 蔦の葉が風にざわめく姿はまるで建物に生命が宿っているかのような錯覚を抱かせる。

旧武田五一邸離れ

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 京都を代表する建築家・武田五一(1872〜1938)の自邸の離れとして昭和4(1929)年に建てられ、武田没後は武田未亡人の終の棲家となった建物。 母屋は昭和30(1955)年頃に現在のこの建物の持ち主であるS家が購入しましたが同37(1962)年の火災で焼失、その後に武田夫人が亡くなった為にこの離れもS家が購入しました。 昭和47(1972)年に大規模改修が行われ内部は旧情を留めていないそうです。  京都府京都市北区  13年04月中旬

 ※参考『京都市の近代化遺産』 2006
    『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996

 ※個人邸ですので見学の際は十分にご配慮願います。



 東面から。 この離れは元は製図室であったという。


 西面に回ると窓には幾何学模様のステンドグラスがありました。


 壁には青紫色の装飾タイル。


 武田五一は包容力があって人間的にも優れ、建物の実施設計を弟子達に任せて自由にやらせる事も多かったという。 中でも松本儀八(1888〜1973)に対しては一際信頼が厚く、武田自邸の実施設計も松本に委ねているそうです(焼失した母屋部分、この離れへの関与は不明)。 松本は武田が教授を務めた京都高等工芸学校時代の教え子であり、大正14(1925)年に開設された大林組住宅部の部長でもありました。
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